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ごあいさつ

 

幼児造形Koyasan集会 運営委員長 栗山誠 (関西学院大学)

 

 毎年好評をいただいております、幼児造形Koyasan集会が、今年も開催されます。子ども達の造形活動や表現、指導法などについて皆さんと研修できることを楽しみにしています。

 この研究集会の運営メンバーは、幼稚園・保育園・こども園の先生や、大学・教育関係の先生など様々な立場の方がおられ、それぞれ研究グループを作り、2月から保育や実技研修のプランを立ててきました。したがって、「現場の目」「学術的な目」「アートの目」を通して、造形活動と子どもの育ちについて話し合いをしてきたといえるでしょう。あと必要なのは「当日参加される皆さんの目」です。保育の世界では、何においても答えは一つではありません。ここに,参会者の皆さんからのご意見や、日頃の思い、体験などを、実際の保育や作品を通して語り合い、共有することにより、はじめてこの研究集会の意味が出てくると思います。

 さて、子どもたちの造形表現活動には、見える部分と見えない部分があります。見えやすい部分は、できた結果としての作品や活動後の痕跡です。ついつい私達は出来上がった作品や結果のみを見て、評価してしまいがちです。しかし実は、子どもの造形表現の重要な意味は、見える部分よりも、見えない部分にあると思います。つまり、活動過程で子ども達は何を体験しているのか、どんな成長があったのか、また人や環境とのどんな関わりがあったかということです。この2日間の研修を通して、子どもの表現活動のみえない部分を理解し、「見える目」を持ちたいと思います。そして今後の保育をより質の高いものにしていってほしいと願っています。

 夏の研修会には、皆様にお会いできることを楽しみにしております。

幼児造形Koyasan集会の変遷史(覚書)

 

顧問 清原知二 (関西学院大学

 

Ⅰ幼児造形Koyasan集会の基礎・西日本美術教育研究集会

 

 西日本美術教育研究集会は1949年(昭和24年)12月8,9日大阪学芸大学天王寺分校附属小学校で公開授業と講演をしたのが始まりです。

 この後第2回は布施市と続き、現在まで多くの開催地で1000人以上の参加者を集めた大会を行っています。途中西日本図画工作大会に名称を変更し(時期不明)、日本美術教育連盟に名称変更して今日にいたっています。現在の幼児造形Koyasan集会は日本美術教育連盟が母体で、この組織の中の一つに属しています。

 この1950年頃には全国に同じような大会が発足しており、米国より民主主義が入り、同様に社会主義的運動(ソビエトに代表されるもの)も浸透しだします。(いわいる50年体制の始まりです。)

 この1950年代に民間美術教育運動が展開されブームの様になります。全国規模のものとして「創造美育協会」「新しい絵の会」「造形教育センター」などがあげられるでしょう。それぞれ「自由主義・自己開放」「生活主義・生活画」「モダン主義・デザイン」という考えをもっていました。この頃は美術=民主主義・平等主義の象徴のようなところがあり、多くの教師が美術教育に取り組んでいました。

 

 西日本美術教育研究集会も、大会は西日本各地で開催されていました。初期から各大会で公開授業をしていために上記の全国規模の大会に負けない規模の人数を集めていたようです。大会終了後もその地域、地域で研修が行われていたようです。1958年(昭和33年)の滋賀大会の後、これらの大会の再度の研修、まとめ、今後の展望の話し合いの場として、各地代表が高野山に集結することになりました。これが高野山集会の始まりです。この時期には義務教育期の美術教育が中心で、そのため、高野山の集まりでも、有志の幼児関係者が参加して、参考にしていたようです。まだ幼児の造形教育が全国的ニーズとして顕在していないころです。

 

 

 

 

Ⅱ幼児造形Koyasan集会の初期・幼児部会と幼児造形高野山集会

 

 第11回大会1968年(昭和43年)から代表者会議であった高野山集会から部会独立の形で幼児部会ができたと聞いています。この時の幼児部会は西日本と関係を保ちながら、主に都道府県代表と有志の研修であったようです。

1971年(昭和46年)に幼児の増加、それにともなう研修の必要性等から、高野山集会に参加して研修したいという要望が増大してきました。幼稚園教諭、保育所職員が自由に参加する会として成り立つことになりました。そのために各地からの参加人数が増加し、今までの高野山集会は西日本を中心とした都道府県代表の研修として義務教育期中心とした集会にし、この集会から部会独立していた幼児造形高野山集会として新たな出発をすることになりました。幼児造形の運営委員会もこのときに必要が生じて作られたと思います。このことから、1968年を現在の幼児造形Koyasan集会の本当の発足年とすべきかもしれませんが、有志が西日本美術教育研究集会、高野山集会に参加もしていたので、西日本美術教育研究集会の発足年と同様にしたようです。

 

このような経過で出発した幼児造形高野山集会は一般に開放されていたので、年々増加する参会者のために、参加に人数に合わせて宿坊(1宿坊150人前後収容)を増やし4宿坊に分散して研修をおこなう年もありました。内容は自分たちの指導した絵画をもとに指導を受ける形式で、夜も希望者には研修が用意されており、夜遅くまで熱心な作品研究が行われていました。高野山にはお寺は多くありますが、実技研修ができません。そのため、高野山大学や高校をお借りして行っていました。指導に当たった助言者は高野山集会で研修を受けた先生や各地で実践をしていたベテランが当たり、丁寧な指導をしていたようです。実際の研修運営は多人数を抱えるため、運営委員を中心にして、宿坊責任者、助言者、助言者補助等役割を掛け持ちながら行ったと思います。(最初の試みであり、多人数、宿坊の多さ、材料等の準備など、サクラクレパスの多くの社員の方々には、運営補助のために大変お世話になりました。これが現在でも援助いただいている始まりです。)

これを機会に、各地の造形に関心のある先生を中心に、各地で幼児造形の大会がより頻繁に開催されるようになりました。それらをまとめる組織として西日本連盟組織の姉妹組織として幼児造形連盟ができました。

 

 

Ⅲ幼児造形高野山集会の2部制のスタートと公開保育の始まり

 

それまでの集会では作品研究と実技研修はできたものの、西日本大会のように公開保育ができないでいました。そのため、全国大会や各地幼児造形に参加していない保育者については、作品研究だけでは、どのように保育が展開されるのか、イメージがわきにくいという難点を抱えていました。そのため高野山に行く南海電車途中駅(高野山行き急行停車)の河内長野の清教学園幼稚園で公開保育を行うこととなりました。初期は清教学園幼稚園で運営委員が公開保育し、昼から分科会をおこないました。終了後南海電車で高野山の宿坊入り、作品研究をするという形で、日程も2泊3日であったと思います。

清教学園幼稚園は幼児造形高野山集会のために大変な努力をされ、夏期保育の日程を合わせ、園舎の改修などを行われました。後になりますが、まだ全国的に普及していなかった全教室冷房設備の導入もしていただきました。この清教学園幼稚園の取り組みなければ、現在の幼児造形Koyasan集会は無くなっていたかもしれません。大いなる感謝を持っています。

 

参会者人数の増加から、運営委員を増やす必要がでてきて、大阪教育大学附属平野小学校関係者、大阪地区の公立幼稚園の造形担当者、それに幼児系の保育者養成学校の組織ができたこともあり、大学関係者、それに当時院生であった私も務めました。助言者は参会者人数が非常に多いために西日本の各地幼児造形の関係者が集められており、各宿坊あたり10名前後にのぼっていたと思います。

また1982年(昭和57年)保育所関係者がこの時期に合わせて参加できないことが多いことから、高野山幼児造形から分離独立した形で保育造形研究集会が発足しました。運営委員の多くは幼児造形高野山集会の運営委員が兼ねました。

 

 

Ⅳ幼児造形Koyasan集会の基礎・新しい幼児造形高野山集会の出発

 

高野山での研修人数も一時期より徐々に減ってきたので、最終的には300人を一箇所で収容出来る宿坊で行われるようになりました。また、先に書いたように清教学園幼稚園が建て替えられ、全館冷房が設置されました。この機会に移動の時間をなくした方がいいという話になりましたが、全体会をする場所が河内長野市になかったのです。しかし近隣にホールが建設されることがわかり、この問題は解決しました。

こうして実技研修もしやすい清教学園幼稚園ですべて行うことになりました。参加者の宿泊施設を長野市内でなんとか見つけ、実現にこぎつけました。ここに現在の運営の原点があります。

その後、近隣の参会者は宿泊せずに集会に参加することも可能にしました。

 

 

Ⅴ今後の幼児造形Koyasan集会

 

初期の高野山集会は義務教育中心で、幼児造形高野山集会はそのような中でも、幼児の造形を研究しようとする強い熱意ある人たちの気持ちからできたものであることがわかります。これら先輩諸氏の高野山集会での努力を忘れないことと、現場のニーズを応えていく精神と造形保育に取り組む熱い姿勢等を続けることなど、世代が代わっても、先輩諸氏の最初の気持ちを忘れないよう努力しています。

高野山集会が原点であるということを忘れないために、高野山の名称を残しました。新しく起こる造形の諸問題に焦点を合わせ、参会者ともに検討する意味も含めて、高野山を現代的にローマ字表記に改めました。さらにKoyasanという表記が一般的になってきたので、現在の幼児造形Koyasan集会に再度改めました。

高野山集会の昔からの現場のニーズに応えながら運営してきたことを踏襲し、新しい造形保育を模索するという姿勢を今も続けています。そのため運営委員は現役の先生、大学研究者、民間の幼児造形実践者で構成していますが、運営委員として相応しいかよく見定めて選抜しています。伝統を理解し、新しい保育の研究も必要なので、徐々に世代交代をはかっています。助言者もベテランばかりではなく、運営委員が行うことによって成長していきますので、あたらしい助言者として世代を継ぐ役割を持つようになってきています。

運営面ではグループを作ることよって、様々な角度から何度も検討し、公開保育の計画、実技研修の精選を行っています。また、運営委員による造形展など、新しい企画も取り入れ、集会の充実を行っています。

今後ともこの姿勢は変わらないと思いますが、園児数の減少からか、造形保育に積極的に取り組む園が少なくなっているように思います。しかし、子どもは成長の一部として造形を行いますから、その環境、援助を充実するためにも、この研修会を続けていかなければならないと考えています。

利用規約

 

当研究集会では、子ども達や参会者の安全を守るための決まりを設けています。

安全対策、個人情報保護のため下記のことを厳守し、御協力をお願いいたします。

 

1.公開保育中の撮影(写真、ビデオなど)は全面禁止にしております。

  個人情報保護のため厳守してください。

 

2.名札を必ず首から下げてください。(名札のない方は不審人物と見なされます。

  名札のない方を見つけたら直ちに、運営委員の方までお知らせください。)

 

 

サイトポリシー

 

●画像やテキストなどの著作権について

当研修会の承諾なしに当ホームページの画像やテキストを転載、複製、出版、放送、公衆送信等その他著作権等を侵害するようなことを禁止します。

 

●ホームページにに掲載されている画像については、子どもの豊かな造形活動を紹介するために撮影されたものです。特定の個人を紹介する意図はありません。

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